空手への思い

2021年 正月雑感

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残心のある空手

武道は「技」と「術」の積み重ねです。何百年何千年と先達が命を懸けて創り育てあげたもの、人々と強調しながら生活を守り続けるためには必要不可欠のものだと思います。

技と術は人と人とが争うときは必ず身に着けるべきものでしたが、傷をつける技と術だけでは長い間安全に生活することは出来ことが分り、ともに生き続けるためには分かち合わなければならない、理解し合わなければならないことが分かってきました。それはお互いの心を開き、理解することがどうしても必要だったのです。その最初のなすべき言葉と所作が「礼」であり「心」です。

例えば「礼」と「残心」は武道の基本的な心構えと言えます。

武道では礼に始まり礼に終わる。「残心」というものが重視されます。これは勝ちを収めた後でも相手から気を離さず、油断のない構えを保持すること、そして相手の負け、屈辱などをを思いやる心です。

弓道においては矢を放った後の姿勢、空手道でも剣道でも、残心を示さないと「一本」として認められないことさえあります。

柔道はどうでしょうか。柔道の選手達は、国内外を問わず、実に礼儀作法がおざなりのようです。柔術が近代柔道として世界に普及され、ルールが標準化されていく中で、スポーツ化されて失われてしまった武道の心と言えるでしょう。そう競技化された武道的なものは本来の武道の半分しか発揮出来ないのだと思います。

空手道で「残心とは」空手型の演武が終わったあとゆっくりと自分の姿勢を正し、正面を見据え、静かに耳をそばだて、心を落ち着け、戦った敵に思いを寄せて最後に頭を下げて終了することです。

自由組手の場合技一本を得て決着を確認して静かに元の位置に下がり、ともに試合をさせていただいたという感謝の気持ちをもって、ゆっくりと頭を下げて礼をすること、それが本当の武道組手試合の技と心です。

最近、月心会の大会の組手試合や型試合でも自分が勝ったことの喜びを周りにアピールし、自分ためのパフォーマンスを自慢してガッツポーズや大声など立てたり、最後の礼もおざなりにしている選手が見受けられます。それは武道を学ぶものにとって恥ずべきことです。

我が支部ではそのようなことは慎んでいきたいと思っています。

空手 礼

 

空手道の心と試合

とは言え現代の空手道で試合を排除して空手の発展は考えられません。

もちろん、スポーツにも礼儀はあります。スポーツマンシップとされるものがそうです。これも日本の武道と同じく、西洋の貴族階級の礼儀からスタートしているものです。「トーナメント」という言葉の語源が、騎士の馬上試合から来ていることを考えても分かります。

しかし、その礼儀が略式で緩いままに現代に至ったのでしょう。個人の主張を大切にする西洋文明や他民族、異文化が競合し合い徹底して敵を排除していく戦いの世界だったからでしょうか。

島国の日本で共通の価値観を持ちながら、極限まで練り上げてきた日本の礼儀正しさは世界に誇るべきものですが、現代社会においてすべての武道系スポーツにそれを求めるのは難しいかもしれません。

空手の技、術は当然のごとく身を守るため戦うためのものです。戦わない空手は使えないとよく批判されます。結論からいうと武道の心を大切にしながら試合を行うことです。しかし当たり前のことなのですがこれがなかなか難しい。

それは空手型の有り様に表れます。試合の勝敗が全てとなって、勝った型が空手の型の価値であり正になってしまいます。見せるための技やカッコいい形や力任せの連続が一つの型として成立してしまうからです。判定や評価の問題ひいては指導の問題でもあるのではないでしょうか。

子供たちや初心者の空手を指導する過程では楽しさ喜び、口惜しさも成長の大切な糧でもあります。それが大会や試合の中に確実に得られるからだと思います。

武道空手を目指すためには技、術の修練と同じように心、礼も同じように修練し育むことことが大切な要点であると思います。

以上

琉球少林流空手道月心会総本部
中川・武蔵小杉支部
中川誠之輔

 

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